せきぞー
こんなところまで足を運んでくださりありがとうございます。
Search Bankのお茶汲み係、せきぞーと申します。
ここではわたしの生い立ちや、本サイトでの活動にあたっての意気込みなどについてお話しさせていただけたらと思っています。
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1987年、東京でSEの父と音楽講師の母の間に2人姉弟の末っ子長男として生を受けます。
せきぞー
初代ゆとり世代です(笑)
特段貧しい家庭だったというわけでもなく、それなりに愛情も注がれながら、当たり障りのない育ち方をしてきたと思います。
ただ、大人になって社会に出てから気づくことになるのですが、
自分自身かなり甘やかされて育ってきたと思っていて、若い頃は礼儀も知らないわがままで自分勝手な人間に順調に(?)育っていきました。
とにかく頭を使うことが苦手でやりたくないと思うことは身近に強要する人間もいなかったので徹底してやりませんでした。
まぁ主にあれですよ。勉強とか、勉強とか。
中でも一番嫌いだったのが文章を書くこと。
せきぞー
ほんと、よくブログなんて書いてるなと今でも思いますよ笑
自分の通っていた小学校では高学年になると「三行日記を書いて提出する」という宿題が毎日あったのですが、
宿題が提出できていないと放課後に書き終わるまで居残りさせられるシステムになっていて、自分は毎日居残りしていた気がします。
「何のためにこんなことしなきゃいけないんだよ」ていう気持ちもありましたし、もともと余計なことを話すのが好きじゃなくて口数が少なかった&それ故に自分の考えを言葉にするということも苦手だったので、
ずーっとみんなが帰ったあとの教室で何も考えずにひたすらぼーっとイスに座っていた記憶があります。
せきぞー
あとは作文を書く授業の時なんかも最悪でしたね。
とくに書くことなんてない(と当時は思っていた)、あったとしてもどう書いていいかわからないし、また授業の時間内で考えて書くっていうのがストレスだったので授業中はずっと鉛筆転がして放課後になってぼーっとしながらちょろちょろ書くっていうようなことをしていました。
せきぞー
どうでもいいですけど昔「バトルえんぴつ」って流行りましたよね。
中学に上がると無事に思春期を迎え心を閉ざしがちになり、さらに冴えない性格に磨きがかかります。
sekizo→
年間に学校内で言葉を発することなんて10回もあればよかったんじゃないですかね
特に女子と話すことが苦手だったので多分同窓会とかがあっても誰?と思われると思います。
引き続き勉強は苦手だったので家で勉強なんてしたことがなく学校に毎日通ってたことでどうにか3年間通してオール3はキープし続けました。
sekizo→
今思い返してみても全然楽しくなかったですね。
それでも毎日通学してたことだけは褒めてやりたいと思います。
おそらくそれでも学校へ行き続けたのは「行かない」という選択をすることによって起こる環境の変化が怖かったのでしょう。
高校進学は受験勉強が嫌で受験の必要ない学校を選びました。
その後の専門学校も入試ではなく学力チェックのみ。
どちらも単位超ギリギリの首の皮一枚で卒業。
就活も2、3社受けて嫌になり断念。
sekizo→
絵に描いたようなクズ←
卒業後、フリーター生活を1年続けた後に仲間うちで八百屋をはじめ8年間毎日ボロ雑巾のように働く。
八百屋の仕事は一から自分たちで全て始めたことなので整備されていないことだらけで身体を張って試行錯誤を重ねる日々。
しかも八百屋は小売業界の中でも随一の超薄利多売の世界で
頑張らないとお金にならないし、頑張ってもそこまでお金にならない。
sekizo→
新しく八百屋をはじめて続く人なんてほんとに野菜が好きか、ひとにぎりの成功した人たちだけなんです。
それでも8年間続けてこれたのは一緒に頑張る仲間がいたからというのが一番大きいです。
しかし深く考えてみると、もし八百屋が机にじっと座って書類を作ったり、プレゼンしたり、営業に行ったりするものだったらそこまで続いていなかったかもしれません。
八百屋は主に頭よりも身体を動かす業務の方が多いし、街のおばちゃんとお話をするくらいの方が人見知りな自分を克服するためにはちょうど良い環境だったのだと思います。
頭をずっと使ってこなかったのは「その方が楽だから」という理由だと思います。
しかし心の中ではそのことに嫌悪感を抱き、「頭を働かせた方がいいはずだ」と常に思い続けていました。
それは自分の過去を振り返ってみても自分の人生の節目節目で納得のいくような結果が出ていたことがなく「あの時もっと頑張っていれば」と思うことしか経験してこなかったからだと思います。
「どこかで自分と正直に向き合って本気になれる何かを見つけなければならない」
特にここ2、3年の間はその想いが強かったと思います(ちょうど業務形態がガラッと変わった時期でもあります)。
八百屋の仕事を辞めてしまったきっかけは体力的にツラかったことと、もうひとつが好きになれる仕事ではなかったから。
ちょっと極端な言い方をしてしまいましたが正確にはこのままやり続けていきたいと思える仕事ではなかったからです。
しかしこれまでずっと社員全員が二人三脚で会社を成長させてきて、そのことだけを支えに頑張ってきただけに辞めることを決断するまでには相当の時間がかかりました。
辞めることを伝える時のツラさは今でも忘れられません。
sekizo→
しかも「やりたいことやるために辞める」って言ってしまってるのでもう後戻りできないことを覚悟する必要があったんです。
ちなみにやりたいことはある程度決まっているのですがまだまだ模索中です。
sekizo→
その中のひとつがこのSearch Bankとも言えますね。
今までの人生で(頭脳以外でも)自分の成長の為に何か努力しようと思ったことはあってもすぐに諦めてしまうことがほとんどでした。
しかしあまり気の進まない内容だったとしても誰かが必要としていることだと思うと不思議と身体が動くことがありました。
一番はじめにそれをしっかり感覚として覚えたのが、
20歳くらいの時に学生イベントにダンスの素人20人くらいでステージに立つから何から何まで全部教えろと任された時でした。
ダンスの経験があっただけで決してお世辞にも「踊れる」と公言できるような身分ではなかったのですが、
学校行きながら、
バイトしながら、
やったこともない曲の編集をして、
見よう見まねで振り付け全部考えて、
本気でダンスを1ミリもかじったことがない人たちに寝る間も惜しんで一人一人に手取り足取り教えて、
1ヶ月でそれなりに形として作りあげた、ということがありました。
当時他にも何組かダンスでステージに上がるグループがいましたが、自分たちのグループがダントツで評価が良かったので相当頑張っていたと思います(順位付けがあって1位だったので)。
終わった後に教えた人たちから溢れるくらいの感謝を浴びた時にとても不思議な気持ちになってsekizo→は涙していました。
自分は相手の役に立つと感じた時に脳に負担をかけるスイッチが人より比較的入りやすいのかもしれないと思った瞬間でした。
sekizo→
そういえば話すのは苦手なんですけど、何かを説明したりする時はいくらかスムーズにできるんですよね。
元の能力が低いので大した内容は説明できないですけど…。
時を経て、八百屋の業務形態が店舗から配達に変わり従業員が一気に増え始めて、そのまま増え続けても自分が辞める最後まで従業員に一通りの作業を教えるのは全部自分の役目でした。
かなりしんどい時もあったのですが気持ちとは裏腹に身体は勝手に動いていたと思います。
sekizo→
最後にマニュアル作って残していったんですけど、その作業がまた大変でした。
もし自分の知っている情報で誰かの役に立つことができるのであれば自分はそのことに全力を注ぎたいと思っています。
本サイトがsekizo→にとって良いと思うところは「自分の伝えたい情報がある程度選択可能である」という点です。
その反面「伝えようとしている情報が本当に必要とされている情報なのか」は記事を作成している段階では確認することができません。
sekizo→
今書いている記事は本当は誰も知りたくない情報なのかもしれない…
そう感じると文字を打つ手は自ずと止まってしまいます。
おそらく、今まで通り生きているだけでは自分には到底記事を継続して書き続けていくことはできないでしょう。
「この記事で誰かの役に立ちたい!」
「この記事は必ず誰かの役に立つはず!」
これらの強い願いと強い信念を持ち続け自らを鼓舞し続ける必要が何より大事になってくると思っています。
これは今まで努力をしてこないで不甲斐ない思いばかりしてきた過去の自分を払拭するための挑戦でもあるのです。
peace
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